「大相撲九州場所10日目に、横綱・白鵬が関脇栃煌山に2度の猫だましを繰り出した。」(http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1567777.htmlから)
私が“猫だまし”を知ったのは、映画「シコふんじゃった」(周防正行監督、1992年公開)に出てきたから。恥ずかしながら、記事にある「小兵が活路を見出すための“奇襲”」とは知らなかった。確かに、映画でも宝井誠明さん演じる春雄くんは、相撲初心者であり、やせていた。現NHK大相撲解説者の舞の海氏が現役時代、何度か見せたことは知っているが、それでも、“小兵の奇襲”とは知らなかった。
なぜこの出来事が気になったか。
横綱・白鵬のファンでも、批判する者でもないが、この出来事を横綱・白鵬のチャレンジとみたためかと。理解力のある方と勝手に思いこんでいるせいか、思いつきでの行動とは思えない。横綱・白鵬のコメントは「勝ちにつながったから、うまくいったことにしましょう。お客さんの反応?(両手を叩いて)コレのこと、知らないんじゃないの。帰ってビデオを見たら分かる。『こういう“技”もあるんだ』って。一度やってみたかった? まあね。楽しんでます」とのこと。エンターテインメントとしての大相撲を魅せたかったのか、本九州場所は調子が悪く“勝ち”にいったのか、力士というよりはアスリートとして彼のなかで変化を求めているのか、日本相撲協会に対しての批判の表れか。
先日亡くなられた北の湖理事長は、「(猫だましを)やるってのは、なかなかありえない。やられる方もやられる方だけど、やる方もやる方。横綱としてやるべきことじゃない。横綱がやるのは前代未聞なんじゃないの?」とあきれ気味。観客もあっけにとられた一番で「拍手がないじゃない。お客さんはどう見ているか分からないけれど…」というコメントを残されており、スポーツ新聞中心としたメディアも批判ととれる記事が多い。
故北の湖理事長のコメントにあるとおり、「横綱としてやるべきことじゃない」ことは横綱白鵬も十分承知していたはずだし、メディアからの批判もわかっていたはずなのに、行動した。元横綱・朝青龍は、「本当にだらしない」「悲しい!涙が出るくらい悲しい今の日本人力士」と、白鵬を擁護するとともに、奇手に簡単に引っかかった栃煌山を批判したようだ。(http://www.huffingtonpost.jp/2015/11/18/asashoryu_n_8595918.htmlから)
横綱・白鵬は、日本人力士に限らず、力士たちに勝つことへのこだわり、大切さを教えたかったとも考えられる。コメントにも「勝ちにつながったから、うまくいったことにしましょう」とある。
相撲は神道にもとづいた神事であり、場所によっては今でも「祭り」「奉納」の行事として続いている。神道についての詳しい知識はないが、大学の時にお世話になったイギリス人の先生が近くにある神社の神主さんに(先生は)氏子といわれ、「僕はキリスト教徒です」と答えたところ「この土地に住む方はみな氏子です」といわれことを思い出す。神道では、人種、宗教を問わず、神社が守るべき土地に住まれている人たちはみな氏子らしい。氏子のみならず、現在では外国人の神主さん、巫女さんもいるようだ。その数は100人超えているとのこと。大相撲も外国人力士が多くいるので、考えは同じのようだ。
ただし横綱には日本人的な“品”が求められているようで、横綱・白鵬はそれに欠いているという意見がある。横綱はただ強いだけではだめだし、勝てばよいというわけでもない。
今回の出来事をちょっとおおげさに考えたい私としては、横綱・白鵬はスポーツとしての相撲を追求しているようにみえる。元横綱・朝青龍は格闘技としての追求にみえたが、それとは少し違う。スポーツでは、勝つために日々の鍛錬がある。勝ちにこだわって、なぜ悪いのか?過去の横綱・白鵬の言動や行動に対する記事を読むと、そのように問うているようにみえるものもある。
Yahoo!が意識調査で、「横綱の「猫だまし」どう思う?」が現在実施されており、「問題ない」が「問題ある」を若干上回っているが、少し前までは反対だったところをみると、結果は賛否両論なのであろう。
大相撲は神事なのか?スポーツなのか?私はスポーツであると思っており、日本人にこだわらず、海外からの力士ももっと増えればよいと思っている。そのための対応や変化も必要であると考える。横綱・白鵬一人の力で山は動かない気もするが、現力士たちが今よりももっと勝つことへのこだわりをもちはじめたら、変わっていくのではないかという希望はある。横綱に限らず、日本人的な”品”は問題視されそうだが。
大相撲を含む日本固有のものが、日本の、または日本人の美意識を保つべきか否かについては、また後日、他のこともからめて書きたいと思う。